③ドレス制作者としてのキャリア


西宮でスタートした洋裁教室は、12年間続きました。けれども私が東京に帰らなくてはならない事態になってしまいました。そこで12年間の学びの成果を受講生の皆さんに発表してもらうため、ファッションショーを西宮の劇場を借りて行いました。私自身の作品も、「女の四季」と言うタイトルでヴィバルディの「四季」の音楽をバックに、春、夏、秋、冬の作品を12点程発表させていただきました。

 

 

その時はまだ細野久先生はご健在で、私のその暴挙(笑)を、心からおほめくださいました。ファッションショーをやるということは、とてもお金と労力が掛かることです。余り主宰する側に回ってやる人はいないのです。それを、洋裁教室の先生が、劇場を借りて挙行するという勇気を何度も何度もおほめくださいました。有り難いことでしたね。

 

東京に帰ってからは、しばらく遊んだり、デザイナーとしてお勤めをしたりしていました。それがある時、当時ナンバーワンアパレル企業だった「ジュン・アシダ」が、パタンナーを募集しているのを知ったのです。とてもとてもその会社に入りたかったのです。けれども、その時はもう50歳になっていました。この年齢で、正社員で採用していただける訳が無いと、勝手に思っていました。

 

けれども何もしないで、そこで諦めてしまったら、一生後悔すると思ったのです。駄目で元々で履歴書だけは送ってみようと決心しました。履歴書が送り返されて来たら諦めもつくと思ったのです。ところが、予想に反してすぐに試験を受けに来てくださいという電話をいただいたのです。喜び勇んで準備万端整えて、試験を受けに行きました。試験の内容は、芦田先生が描かれたデザイン画のツーピースのパターン(型紙)をその場で制作するのがテストでした。

 

実はテスト内容が、私にとっては一番得意な分野だったのです。そのお蔭で、すらすら制作出来て、すんなり合格できたのです。沢山の方々がテストを受けに来られたのですが、有り難いことに、定員1名のところを、採用していただくことが出来たのです。嬉しくて嬉しくて、天にも昇る気持ちでしたね。

 

そしてジュン・アシダでは、7年間ドレス制作を担当させていただきました。オーダーのお客様の、パターン創りと生地の裁断をして、縫製部で縫っていただいた仮縫いドレスをお客様にお召しいただき、仮縫いをすることが私の仕事でした。東京コレクションのドレス部門も制作させていただき、充実した日々を過ごさせていただきました。

 

ジュンアシダの仲間

 

母の介護もあり、ジュン・アシダを退職してからは、京都にありますウェディングドレスの会社の外注パタンナーとして、自宅にいながら京都の会社の仕事をしていました。そこでの仕事が一番長くて、18年もの長い間やらせていただきました。神田うのさんのパリコレの作品制作もさせていただいたり、楽しい想い出がたくさんある仕事でした。いまだに懐かしく思い出したりしています。

 

神田うのさんのドレス

 

神田うのさんドレス 

神田うのさんドレス


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